9月に触れた作品 アニメ音楽ゲーム漫画

 外がだんだんと寒くなってきましたね。季節は冬が好きなのでこの時期はワクワクします。

 

 本日は備忘録に、手帳にでも書いておけばいい事なのですが、9月に触れた作品を忘れないうちにメモしておこうと思い至りました。

 

・アニメ

「映画クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険」

 9月の頭に見た作品で、虚構と意識、現実への漏洩を感じ取れた作品でした。自分にとってタイムリーな問題を二十数年前の作品の中に感じる体験を得られました。今月に公開された新作は、足を運べておらず、観るモチベーションが下がってしまったのですが。また気が向いたときに見たいと思っています。書きなぐりですが、記事を書いてみたのでお時間がよろしかったら見てくれると嬉しいです。

 

涼宮ハルヒの憂鬱

 去年のスタジオの事件を受けて、どう感じればいいのか頭の中では分からないままでした。ですが、恐らくそれとは別に気が向いてこの度は拝見させていただきました(それでいいのだろうか)。自分が小学生の頃に爆裂的に流行っていた作品で、恥ずかしながら当時は海賊版で観てしまった作品です(今回はちゃんとdアニメで観ました)。今大学生になってから観たこの作品は、自分にとっては、「高校生のままこの作品の持つ、危機と方向性をくみ取ることはできなかった」という意味で「答え合わせ」のような作品であると思いました。「退屈すぎてまるで死んでしまいそう」「憂鬱」「SOS」、冷静になってこの言葉を受け止めてみれば、「子供にして贅沢だ」と隅に蹴飛ばして片づけることもできますが、「深刻であることは間違いない」というアラートが暇な自分には無視することはできませんでした。続く劇場版である「涼宮ハルヒの消失」もみさせていただきましたが、作品を貶める意図は勿論ないのですが、「生活の知恵」とともに「虚しさ」を強烈に感じてしまい、その日のショックたるやデカかったです。いい発見がたくさんあったし、自分が軽々と「俺ハルヒ見たことあるよ」と言う前に、整った視聴環境と脳内環境である今のうちに見ておくことができてよかったと思います。気軽に観れてしまう時代で本当に良かった。

 

氷菓

 京アニつながりで視聴しました。自分は字を読むのが苦手で、読書をからっきしにして今までいたのですが。ちゃんと読書が好きで当時に視聴していれば、きっと夢中になっていたと妄想してしまうような魅力が溢れていました。主人公奉太郎と福ちゃんの関係性が、非常に上品で好きでした。

 

「カクレンボ」

 昔衛星放送で見た記憶があり、ホラーゲームに関連するときに定期的に思い出すため、もろもろの確認のために観ました。自分にとっての怖さ不気味さの原点というか、この作品の世界観がいる暗さを何度も無意識の内に引用していたかなと、記憶の振り返りができました。「朱色の木造や鳥居」と「ネオンライト」「からくり、メカ」、静かで物々しい「九龍城塞」らのミックスされた世界が記憶の中のタンスにぐちゃぐちゃに詰め込まれていました。似た雰囲気が、恐らく同時期に連れられて映画館で観た「妖怪大戦争」(2005)の中にもあり、この収納物が確かなものになったのだろうと思います。

 

マクロスΔ

 好きなVの方が主題歌を歌っていて、気になって観ました。成就する恋としない恋、どちらかでいえば後者の描写が際立っていましたが、それも恐らくメインのテーマではないのかなとなんとなく思いました。自分はコンセプトがちゃんと受信できずに、朴念仁な主人公に終始「カーッ!!!」となっていました。曲”は”よかったなんて言い方をするつもりはないのですが、音楽がとてもかっこよく、キラキラした映像と相まって戦闘シーンではつい感極まって涙が出てしまいした。アニメに続くオリジナル劇場版が企画されているので楽しみです。

 

ラーゼフォン

 変にシンボルに気づいて記事にしてしまったと思っているのでが、やっぱりこの作品は好きです。「見たことあるし好きだよ」って人と話せたら楽しいだろうなと思います。宮本充いいぞぉ....。

 

デカダンス

 今年の夏アニメのひとつです。メタなオンラインゲーム要素が舞台であることが明かされたタイミングには、やっぱり「え~」と期待してたものと違ってしまったと違和感を感じましたが、終盤でナツメが真実を知るシーンの、得体の知れない、何かぶつけようがない不快感の表現は、この設定あってこそのものなのでとても楽しめました。1クールの作品で「立ち上がり」が全体的な流れになっているため時間が限られてはいるのですが、主人公二人の傍にそれぞれいる「束縛系感情デカデカ人間」な2人に主人公たちはもっと沢山かまってあげてほしいなと観ながら思いました。

 

「REDLINE」

 カクレンボと同じく、ごくたまに記憶にちらついていたので確認のために観ました。すさまじい作画と、音楽と映像の演出の緩急に酔いしれてしまう作品でした。

「マシンへ~~~~ッド!マシンへェ!」

 

キャシャーンsins

 どのタイミングでどこから知ったのか覚えてないのですが、これもまた記憶にちらつきシリーズの一つでした。重たい死生観を一切の茶化しなしで、すさまじいエネルギーをもって描きあげられた作品でした。つい先日観終わった作品でまだ頭の整理がついていないのですが、生き方と命、老いと無垢で正直な子供、真実と狂気、欲望といった軽々しく扱いようがなく、観る人の心もずたずたにしてしまうテーマであることを分かったうえで、真正面から向き合っていたと思わされました。この作品でもラーゼフォンの記事で書いた様に、「静的な青と動的な赤」をイメージした配色がされていたと思います。最も本作では死に対する多様な考え方を持つ登場人物たちがリアルタイムに同期しながら形を変えていくため、一つの型に当てはめながら着いてゆくことはできないのですが。「答え」という言葉を使わずに「答え」という言葉が持つイメージを表したくなる、自分にとってそんなイメージを持つ作品どす。とても気に入ってしまい、コメンタリーなどを通してもっと知りたいため円盤の購入を検討しています。曲もまたい~~んだ。キャシャーンの新体操めいた動きとキレのある作画も感動。

 

 

・音楽

 感想をかけるだけの音楽の譜面などの知識はないので、購入した音源やアルバムだけメモ。

「ゴールデン・フライト」山口百恵

YELLOW MAGIC ORCHESTRAYMO

Flash」BLU-SWING

「PARTY TONIGHT」難波弘之

「AFTER 5 CRASH」角松敏生

 

 最近企業からデビューされた海外向けのVの方(サメちゃん)が山下達郎を歌っていて、海外のCITYPOP人気の質感をこれまでと違う感じで得られたのはいい体験でした。

 先月に購入した「SUMMER BREEZE」というCITYPOPを集めたタワーレコードのコンピ盤から知ったアーティストとの関連や、自分はもともと海外の方が日本の音楽を見つけてアレンジしたものをsoundcloudで知って好きになったのですが、その時に聞き覚えのあった楽曲をいくつか購入しました。

 あとはキャシャーンのシングルをいくつか買う予定。

 

 

・ゲーム

「Enter the Gungeon」

  8月9月はずっとこのゲームをやっていました。自動でスクロールしない立体的な避けシューとローグライクの合体。ファーストインプレッション以上のイベントやアイテムの膨大さに、次のプレイへと掻き立てる魅力があります。基本的な操作やゴールは大きく変わることはないのですが、「次の周回は何を見せてくれるんだ」という欲求をうまくコントロールされた作品でした。

 

「FALL GUYS」

 配信者がプレイされている様子は楽しそうなのに、自分が一人でやるとその感動との壁をありありと感じてしまうという体験は実は初めてかもしれない。自分は本作が提供するイライラ要素が何よりも勝ってしまった。

 

「blasphemous」

 ぬるぬる動くドットとダークかつ衒学的な宗教世界とがマッチしたアーティスティックな作品でした。ドットだとアクションをダイナミックでスムーズに見せるのは難しいんじゃないかと直感的に思ったのですが、本作をプレイすると「こんなに動くの!?」という感動によってその要素から目をそらさせる作りこみが本作にはあると思います。

 

 

・漫画

「君が肉になっても」

 twitterで見かけ、気になったため購入しました。夜になると人を食べる化け物になってしまう女の子と、その子の傍にいて次第に精神や身の回りの大切な物をその子に捧げてしまう女の子二人のお話です。この漫画を軽い癒しのつもりで手に取り、読み終えた自分は(特に須田ひな子を見て)、カップリングに対して投げかける「てぇてぇ(尊い)」という言葉の中にいつのまにか自身に破滅的で周りに破壊的な性格さえも内包させてしまった事への責任を問い詰められているような気分になり、今は慎重な気持ちです(こうした作品を読もうとてぇてぇと言えてた方が健康だとは思うかな)。

 

アニメ雑記「ラーゼフォン」

お久しぶりです。

課題が全く手につかず、いよいよ卒業がやばくなってまいりました。しかしこうした過ストレス下でこそなぜかアニメや映画は楽しめるものなのですね。

 

 さて、ここ数日でdアニメでサジェストされた「ラーゼフォン」(2003)とその再編成された劇場版「ラーゼフォン 多元幻想曲」(2003)を鑑賞しました。少年が自立し使命に向き合う物語です。劇場版では登場人物を削り、アニメでやりたかったことをブラッシュアップし、プラスで主人公綾人とヒロイン遙による時間を超えたラブストーリーにスポットを当てていました。しかし結末や登場人物の役割が違えど、基本的にアニメと同じ道を辿り、似た場所に到着していて、自分にとっては"ifストーリー"というほどの違いはないとの判断ですので、本稿では基本的にアニメ版が劇場版の、劇場版がアニメ版の、それぞれの物語を補い合っているという理解で話を進めようと思います。

 

流れる血潮、脱出と回帰

 所感となりますが本作は、閉鎖的で建物が角張った空の狭い東京と、開放的な南の島と畳のある日本家屋を行ったり来たりする寒暖差により、まさにサウナのごとく気持ちのいい映像体験が得られました。

 そうした映像体験も含め、物語において頻出する”青い血”。頻出する青と赤を対比する演出が本作では重要な意味を示しているのではないかと自分は思いました。

 

 この物語では道しるべとして、赤と青という二色のモチーフを用いて「脱出」と「回帰」という二つの象徴をそれぞれ導いていることが考えられる。

 

 青色自体は希望や幸せ、命の源、海の青というイメージを持つが、それが赤色と比較されるとき青のイメージは死や静的なイメージに逆転し、逆に赤が生きていることや情熱といった動的なイメージを想起させる。

 

 アニメ最終話、精神世界の地下鉄で綾人と久遠が対峙する場面において、一話と同様に左の路線の電車に乗るが、これまた同じく左の電車は青色が指し色、または青がメインの色となっている。そして対向車線の電車は赤色であることがここで明かされる。

 この地下鉄と電車というモデルが人体における動脈と静脈にそれぞれ当てはめられると私は考えた。一般的なイメージかどうかは分からないが、赤が動脈、青が静脈と理解している。補足すると静脈は血液が心臓へと戻る際に通る血管、動脈は血液が心臓から出ていく際に通る血管である。地下鉄という場面は静かで暗く地表より低い場所、つまり体あるいは心の中を表していると推測される。

 

 あらすじを追いながらこのように心臓をモデルとして考えられる点を挙げ連ねていく。

 

 第一話。東京の外側から来た人間、紫東遥はそれまでの綾人の知っている世界に疑問を投げかけ、「世界の真実を知ろう」と神名綾人に脱出の手を差し伸べるが、綾人はそれを断り、綾人の幻の中の理想の彼女である美嶋に導かれ青い電車に乗る。閉塞的なパーソナリティを持つ主人公にありがちな逃避フェーズである。そして自分の中に潜り込むことで、見えたものは恐ろしい謎の卵であった。その卵が割れ、中から出てきたのはこれまた謎の巨人、ラーゼフォンであった。物語を追うことで判ることだが、ラーゼフォンは綾人自身でもあり、世界を不安定な状態から調律するための鍵である。それを踏まえるとここで綾人が苦しむのは、「自分にはどうしようもないだろ」と思うほどの責任の一端を目の当たりにしたからである。ここで「自分に向き合う」という選択肢が綾人にとって目を背けたくなるものとなり、パニックを起こしながらも、17歳まで東京を出たことがない(郊外に旅行ぐらい行っていたかもしれないが、親せきの家に遊びに行ったことがないというセリフや記憶を操作されてることから)綾人は遙と共に東京を脱出し、外の世界を目の当たりにすることになる。

 

 外の世界(主に南の島ニライカナイ)を舞台に、綾人は傷つきながらも、現実の世界の真実を知っていく。どうやら東京は地球とは別次元の異世界組織「ムー」に支配されていて、障壁を作り、壁内の人間の記憶を操作することで東京を拠点にし、ゆくゆくは人間世界を乗っ取ろうと企んでいたようである。そして綾人には知らされていないが、綾人はムーにとっても重要なカギであり、彼を取り戻そうとムーの兵器が綾人やその周りに攻撃を始め、綾人は混乱しながらもラーゼフォンに乗り戦うことを選ぶ。

 

 その後この作品では真実に傷つけられたり、過去に真実で傷ついた、あるいは傷つきたくない大人たちが秘密を打ち明けずにいる様子が繰り返し映し出される。綾人が外の世界の真実を知ることで傷つくことはもちろん、遙が綾人の記憶に残滓として残る運命の人であることを隠していること、遙と樹のそれぞれの思い人をそれぞれごまかし合っていること、一色の正体を財団が最後まで隠していたこと、樹が綾人と兄弟であることを隠していたこと...いくらでも。どの物語においてもそうした人物同士の情報開示は当たり前のことだが、本作において打ち明けられるほとんどの真実には人を傷つけるトゲが明確に表現され、登場人物たちがちゃんと傷ついている。

 

樹「真実と幸せは意外に遠いものさ。それが分かるくらいには大人だろ?」

綾人「怖かったんだ、知ってしまうことで壊れることが。僕はここが好きだから。」

 

 決定的に綾人を限界にしたのは、十四話において綾人が異世界からの侵略者「ムー」の血を引いていることが明かされたことだ。ムーの血は赤ではなく青であり、東京でムーのコントロールを受けた人間の血も青くなってしまう。綾人の血も青くなる兆候が確認されていたのである。ムーに故郷を燃やされた人やムーと戦ってきた人達と共にいた綾人はムーリアン(ムーの人たち)であることを知り拒絶されたり敬遠されたりもした。優しくされつつも居心地が悪さを感じた綾人だが、遙によって外に向けられていた関心を、再び内側に向けることで自分自身を見つめなおす、自らの生まれに向き合うことを決意する。

 

 この動きはまさに心臓をポンプとした血流である。外の世界を知る、「脱出」を担う動脈と、自分と向き合う、「回帰」を担う静脈。血が青くなることはヘモグロビンを奪われ(傷つき)、生きるためには再び心臓(肺の機能と一緒くたにしているが)である東京(故郷)へと帰らなければならないことを知らせるサインであると考えられる。

 

 母親である麻弥と再会した綾人は自分の生まれとラーゼフォンで世界を調律することの意味を明かされる。異世界人であるムーも人間であり、どちらか片方の世界しか存在できず、ムーの世界を存続させたい麻弥は使命を背負った綾人をムー側である東京に閉じ込めておきたかったのだ。アニメ版でのこのシーンは綾人を怖がらせていただけに見えたが、劇場版でのこのシーンは、綾人の自主性を考慮し、人間の世界かムーの世界か綾人自身が選ぶように促している。

 

 そして自分と向き合うことにしんどくなった綾人は東京を後にして、再び外側、他人と社会に目を向けることになる。

 外の世界に戻った綾人は樹と久遠、朝比奈と鳥飼、バーベム財団、そして遙と言葉を交わし、今度は自分がムーリアンなだけではなく、世界の調律の鍵となるさらに高次の「オリン」という特別な存在である真実を突き付けられる。オリンは文明リセット機能いわば世界改変能力を持つが、その力を使えば人ではなくなってしまい、改変した世界に人間として留まることができず概念のような存在になってしまうのである。

 

 存在すると思っていた黄色いワンピースの女の子が、欲望などの自分の側面のひとつ、つまり自分自身であることを知ったこと。そのイメージの元は、ずっとそばにいたが、薄れる記憶の中に消えかけてた遙であったこと。オリンになり調律を行うことがもはや避けられない事。それらの材料がそろった綾人は、自分の決断、本当にそれで納得できるかを自分に問い、動かしようのない現実に精神を順応させるため、久遠にエスコートされ再び自分の世界へと回帰することを選ぶ。そして青い電車に乗る。アニメにおけるこの地下鉄のシーンは劇場版ではカットされているが、おそらく遙が綾人の精神に混ざりこむために青いジェットで介入したシーンはどちらにもあるので、恐らく劇場版でも同じプロセスを踏んでいると考えられる。

 精神世界の深くに来た綾人は(水没したハイウェイの場面)、アニメ3話でも登場した母のメッセージを告げる不自然な青い公衆電話の受話器を取る(自分の深層と交信する儀式)際に、今度は外の世界で得た思い出があるために赤いテレビ(外の世界の象徴)からのメッセージが映し出され、青い鳥(ここでは静脈ではなくチルチルとミチルの青い鳥の寓話からの引用としての独立した青)となって綾人に潜り込んできた遙に導かれ、世界の調律を遂げることで物語は幕を閉じる。

 

 物語をまとめると、ラーゼフォンと対峙する(静脈)、外の世界を知る(動脈)、東京に帰る(静脈)、もっと外の世界を知る(動脈)、自分の決断と向き合う(静脈)、という反復運動が物語を通して行われていることが分かる。

 

 PDCAサイクルというモデルは、それを実践しようとしなくても、生きようとする人の人生に大方当てはめて考えることができるだろうと自分は認識していることを先にお知らせしておくと。そのサイクルのように内なる世界と外の世界を行ったり来たりしながら、情報量を増やしていき、サイクルをどんどん大きく満ちたものにしていく。脱出(動脈)するなら回帰(静脈)もまたそのたびに必要である。動脈と静脈のどちらか一つでは身体の機能は成り立たないことと同じである。

 

 

 「ラーゼフォン」という作品は、そうした生きるために行う普遍的なサイクル運動を心臓という背景モチーフを用いて表現し、脱出(外の世界のあの子、まだ見ぬ他人と関わり、生きるための知恵を得る)というメソッドと同時に、回帰(自分の人生を見つめなおし、その祖たる母を知る)というメソッドを忘れてはならない、そして逆もまた然り、という事をメッセージとした作品なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

余談

 アニメのラストシーンにリアルタイムでついていけなかった一人として、劇場版鑑賞後に整理して苦し紛れに出した結論だが。紫東遙は綾人をずっと想っていて綾人の中に女性像を作り上げている。樹は紫東遙が好きであるが、恋敵でありコンプレックスを感じ続けている兄綾人にも同じだけ愛に似たエネルギーを捧げている。そして久遠は真実の世界の中で美嶋と同等の存在になる。そして美嶋玲香は綾人の願望であり綾人自身でもある。そして美嶋玲香の正体は紫東遙である。つまり樹が自認したずっとそばにいた幸せ(青い鳥)は久遠であり綾人のことである。最後に綾人は調律後の世界で樹として転生する。

 複雑な流れだが綾人、紫東遙、樹、久遠、美嶋玲香の5人の登場人物がそれぞれ同化しながら一人ずつ減って行き、最終的に円が点に収束するように一つになる(調和がなされる)構想は、数学の証明チックでとても素敵だと思うことにしている。

 

 また劇場版をヒントにアニメ版を見直すと、ちゃんと美嶋玲香が綾人にとっての幻の少女であることがミスリードと織り交ぜられながらもしっかりと表現されていた。学校のプールの飛び込み台に立つ綾人は水面に映るが美嶋玲香だけ映らなかったり、美嶋玲香と電話で会話するが、母が確認すると着信履歴がなかったりなど。注意力が足りない自分としては大変驚かされた。また美嶋玲香の正体が紫東遙であることもアニメのラストシーンで最後のピースが揃うようにきちんと謎が散りばめられており、アニメのみでも黄色いワンピースの少女を追う綾人と素性を綾人に明かさない遙の、すれ違いの構図の謎がきちんと解けるようにできていた。それを踏まえれば劇場版とアニメ版でやりたかったことが同じであることは分かる。その点でアニメ版は登場人物によって登場人物の見える姿が違うトリックを活かしたミステリー側面での作りであることが分かり、自分は大変感動した。

 

 好きな登場人物は如月樹で、彼を演じる宮本充がその理性的だがウィットに富んでるキャラクターと相まって、ビッグオーのロジャースミスを思い起こさせて個人的にとても見ごたえがあったし作品を見続けるモチベーションの一つにもなった。

 

 また根来島で綾人が戦うまでの葛藤は、海風と主人公のちょっとだけDQNな性格と相まってFF10を思い起こさせた。そして綾人が自立していくが、使命によりこの世界からは消えてしまうという展開はFF15を思い出して、正直少しムッとしてしまった。(こういう展開には慣れないため....)

 

 劇場版で追加された終盤の遙の葛藤シーンで話してる内容がまた良かった。大学の講義の受け売りだが、まず自分が存在がして他のいろんなものが存在するというある西洋哲学と比較して、日本の哲学は人と人とが認識し合うことで初めて自分が存在できるというやまと言葉から導かれる思想の下地があるという。自分だけで自分を認識することはできない。そうしたベースが会話の中にあるように思えた。これがあることで一見して何をやってるか分からなかった遙の青い鳥による特攻に綾人と遙の絆の意味が感じられたし、綾人が自分を見つめなおそうとして、自分の中に美嶋玲香という他人が出来上がってしまったという事にも必然性が生まれる説明になると思う。

 

 劇場版ではアニメ版における専門用語がバッサリとカットされていた。ヨロテオトルやニライカナイ、神なる心臓、マヤ文明に関する単語をほぼ出さないようにしていたと思う。(アニメ版はアニメ版でその衒学的な雰囲気は好きだが。)アニメ初見時には、当時のオタク君たちのオカルト趣味ならマヤ神話やムー大陸は聞きなれたワードなのかな?と思いもしたが、放送当時はどんな質感だったのだろうか。(ケロロ軍曹の冬樹君って結構一般的なオタクの側面でした?)

 

 

 

これで終わります。最後まで見てくれてありがとうございます。次はラーゼフォンの脚本も担当してる榎戸洋司つながりで忘却の旋律を見ているのでそれか、鉄血のオルフェンズについて時間を見つけて書いてみたいと思っています。それでは。

アニメ感想雑記「映画クレヨンしんちゃんーヘンダーランドの大冒険」

こんにちは!Akkie(アッキー)です。

 今回は先の記事で紹介させていただいた通り、アニメの感想雑記を書き述べてみたいと思います。

 アニメの感想第一稿目は先日鑑賞した「映画クレヨンしんちゃんーヘンダーランドの大冒険」(1996)です。アマゾンPrimeVideoで2020/9/2に視聴。

 

・あらすじ(読み飛ばしてください)

 テーマパーク「ヘンダーランド」に幼稚園の遠足で訪れた野原しんのすけは、みんなとはぐれてしまい工事中のサーカスの舞台裏で人間のように喋る操り人形のトッペマ・マペットと囚われの姫に出会う。トッペマからヘンダーランドの正体が異世界から地球を侵略しに来た魔女(マカオとジョマ)が支配する城であることを知らされ、計画の阻止の協力を頼まれる。しかし魔女の手下によってトッペマは呪いをかけられ、しんのすけは家に帰されてしまう。その後マカオとジョマに危険だと判断されたしんのすけの元に刺客(ス・ノーマン・パー)が送られ、野原家の両親に言葉巧みに取り入りヘンダーランドに一家を招待する。スノーマンを疑わない両親にしんのすけは終始不安を抱きながらも、何事もなく帰宅したと思いきや両親が遊園地で偽物と入れ替わり、城に囚われてしまったことが明らかになる。トッペマに協力することを決心し、家族を救うためにしんのすけは一人で電車に乗り再びヘンダーランドに向かう。しんのすけは心のあるものにしか扱えないという魔法のトランプを使い魔女の手下と戦うが、その最中にトッペマが魔女の手下の一人と相打ちになり、力尽きてしまう。両親と再会したしんのすけは両親と共にマカオとジョマとの最終決戦に挑み、撃退に成功する。手下の一人であるスノーマンが最後に立ちはだかるが、解放されたメモリ・ミモリ姫が窮地に駆け付け、スノーマンをもとの姿に戻すとその正体はヘンダーランドの王子であった。そして姫も自分の正体がトッペマであることをしんのすけに告げ、王子と共に地球を去り、物語は幕を閉じる。

 

・所感

 私は現在20代前半にして、クレヨンしんちゃんの映画を見た記憶はほぼなかった。いつか見たいと思っていたシリーズで、せっかくなので好きな動画投稿者が話題に挙げていた「ヘンダーランドの大冒険」を見ることにした。フィルムのチェンジマークや強い光の点滅に(20数年前の作品なので当然だが)古さを感じさせた。そしてその映画の質感が、本篇の要所での不気味さやしんのすけの不安を共有させる演出と混ざり合い、自分にとってこの鑑賞はとても心地良い体験となった。

 遠足に行くバスに乗るしんのすけを、みさえが見送るシーンの朝の青白さ。しんのすけが迷子になる場面や両親がトイレに行きしんのすけ取り残された場面の引きのカメラと不気味に長く伸びる影。しんのすけが不信感を訴えるシーンなどでは見上げる構図、あるいはしんのすけを見下ろす構図がカートゥーン調のデザインを活かすように映し出され、子供から大人への抗いようのなさや話の通じなさの恐怖を強調する作りになっていると感じさせられた。それと同時にその構図を用いないシーンや同じ身長のトッペマやほかの園児との会話においては、安心がもたらされているように感じた。物語前半における不穏さの演出はとても楽しめた。

 

・劇中劇・おとぎ話・夢・理想・創作としての「ヘンダーランド」

 私は地上波のアニメクレヨンしんちゃんは見ていたことがあり、しんのすけやほかの園児が5歳児にして大人びて達観した発言をし、保育士や大人たちに困り顔をさせるという流れは覚えていた。映画序盤の読み聞かせの場面で「おとぎ話」と現実の壁に絶望せず、冷めた態度で語り合う一同の様子は「あぁ、クレしんはこの雰囲気だよね」とクレヨンしんちゃんを見ていた記憶を蘇らせたと同時に、この作品が「王子様とお姫様」と「現実」を扱う作品の一つであるのか、と予期していなかったワクワク感が訪れて嬉しい気持ちになった。話がそれるが自分はそのはざまに苦悩する様子を取り扱う作品が好きで、その一つである「少女革命ウテナ」は大学生になってから見たが自分の感じ方を大きく変えた一作である。

 鑑賞後は、またしても予想外に本作の構造とメタファーに驚かされ、そして「自分の中での創作(フィクション)の在り方」を考えさせる作品であることに気づかされた。

 もちろんこの映画が「野原一家の生活する日常とヘンダーランドという日常」が映画の中のあの時間だけ重なった(2つの社会性を持つ世界が繋がった)と考えるのが真っ当だと私も思う。しかし堅苦しく唐突な話になってしまうが、「超常を支えている日常」「現実社会と創作」「現実と理想」というキーワードの問題を、それこそ近年某青い鳥SNSで取沙汰されている「フィクションが現実に影響を及ぼす」というキーワードで話題に上がる問題を目の当たりにしていて、これだけヒントに満ちた本作を前に無邪気に「面白かったねー」という感想を添えるだけで済ませてはいけないという義務感(”謎の”かもしれない)に近いものを正直感じてしまった。そのため、回りくどく伝わりづらい説明になってしまうと思うが、できるだけこの堅苦しい視点での解釈をしたいと思う。また最近公開された「レヴュースタァライト・ロンド・ロンド・ロンド」の構造と似たものを感じたため、本作が「ヘンダーランドの大冒険」の私の中での解釈に影響を及ぼしている。私が思うにこの作品は「おとぎ話」に向き合う「しんのすけ」を描いた「映画クレヨンしんちゃん」に向き合う「画面の前の私」という、入れ子構造が成立する作品の一つである。

 本記事では、日常(私生活・社会)と超常(創作)の相互的な関係の自分の理解している範囲を説明することを目標としていきたい。

 映画本編における架空の世界の「ヘンダーランド」は「現実に干渉してこないおとぎ話」と「現実に干渉してくる異世界」の2つの側面を持つように描かれているが、実際には前者の役割を徹底し、大局的に観れば後者のように日常を脅かしてはいない。なぜなら「ヘンダーランド」はこの映画における劇中劇のおとぎ話であり、結論から言えば、それはしんのすけだけが知る物語だからである。

 そう思う根拠として本作には実際に、「ヘンダーランドはしんのすけが見ている夢であり、しんのすけの創り出すおとぎ話である」ことを示唆する表現が散見されたので、興味を持った点をいくつか説明する。

 

 「トッペマがテーマパークでかけられた呪い(制約)が、夜(深層心理の中)以外は誰にも見えなくなり助けられなくなるというもの」

「テーマパーク」として存在するヘンダーランドは「超常の世界」としての意味を持つ。「超常」は日常の対義語であり、日常の社会生活の中には存在しないものがある場所である。しんのすけがテーマパークであるヘンダーランドにいる時間は、しんのすけが作品と向き合う(空想する、理解する、創造する)時間であり、具体的にはお話作りをするための頭の回転や映画館で映画を見た後の脳内の刺激としても理解できる。つまりはしんのすけの意識の中だけの世界である。しかしテーマパークの外、いわゆる日常ではその力は無意識の内でうごめいている程度であった。「誰とも話が通じない日常にイマジナリーフレンド(トッペマ)を召喚する」「ヘンダーランドという物語の続きを描く」ためには自分の意識の深層を掘り下げ顕現させるための対峙の場が必要なのである。その儀式の場が「夜(日常と超常の境界)」であり「浴室(のぼせて意識と無意識が融け合う湖と、意識と無意識の境界を表す水面のメタファー)」である。実際トッペマ(超常の存在)は野原家の浴室で2度召喚されている。しんのすけはこの映画において、しんのすけの中に眠る作品(ひいては現実の諸問題への救難信号)を上手くアウトプットする力を持っていないがゆえに(のちに説明するが未完成なためである)、両親や保育士などの周囲に自分の頭の中のイマジネーションを理解してもらえないという危機に何度も直面する。

 

 「現実に侵略してくるス・ノーマン・パー」

 ここで「おいおい、おとぎ話の登場人物のスノーマンは日常にも来てるじゃねーか」と言いたくなる人もいると思うので、自分の見解を説明する。繰り返しになるが、先述の超常はしんのすけの中にだけある物語、日常は現実社会(家や園などでの生活)に変換して理解してほしい。まずスノーマンが日常にいる他の登場人物から本当の雪だるまに見えているなら、不審者として真っ先に職質されるのが当然であり、保育士として幼稚園に侵入することも不可能だ。しかし、”注目を集める人”を超える反応をしんのすけ以外の誰も見せていないのである。スノーマンはしんのすけ以外からは雪だるまのような風貌には見えるが、雪だるまのUMA異世界人として認識はされていないようである。助けられたまさおくんや野原両親をはじめ、彼を指して「人」と繰り返し呼ぶ様は(とても不気味)これを強調する。この現象は、しんのすけのその時身近にいた周りに融けこむのがうまくウィットに富みミステリアスな人物が、自分だけのプライベートな領域(家庭や心)を侵略してくる可能性に危機を感じ、しんのすけの創作「ヘンダーランド」から融け出してきた悪者としての像をしんのすけが重ね合わせて認識しているのだと思う。具体的なスノーマンの正体は、園に潜り込むときに使った口実の「市の教育委員会の新しい教育プログラムのテストに来た人」が実は本当のことなのだろうと考えている。研究の引用から目の前の人を人間としてではなくサンプルデータとして扱い、パーソナリティに侵食しようとする学者質な人間の側面を感じ取り、しんのすけは違和感と恐怖を覚えたのだと思う。

 そしてしんのすけがこの人物を「ヘンダーランド」のスノーマンと重ね合わせる行為は、一年に一度の記念日にプレゼントを贈って来る謎の人物を「サンタクロース」と信じたり、不審な人物や夜の不安を「昔の妖怪」や「怖い話」に重ねて余計に怖がったり、電車で座っているときに目の前の年配が「若いのに譲らないなんて」と思っていると邪推して席を譲るかどうかを悩み続けたり、興味がある人が自分の知らないところで「淫らな性生活をしている」と勘ぐって交流を拒否するなど、しんのすけは「創作(フィクション)と現実の意図しない融合(無意識の引用)」による危機に直面している事を表している。

 私の持論で恐縮なのだがしんのすけにおける「ヘンダーランド」に限らず現実の様々なドラマの中でこうした重なりが生じて委縮する仕組みに、「創作(自分の中のマニュアルであり統合された作品の一つ)が未完だから」が要因の一つだと考えている。「未完の創作」の意味は立ち上がりや問題提起、葛藤をするというアイデアだけで結末やエンディングを持たない状態ををイメージしてもらいたい。つまり創作が完成していない状態は「苦悩・困難・危機」のみで、「調和・開き直り・無視」などの道しるべがないこと意味し、「思い出」という形で本を綴じ作品としてひとまず完成させていない状態を意味する。本作のクライマックスを、しんのすけが物語を創り終えに行く過程と自分が認識しているのはこのイメージがあるからである。そしてしんのすけの目標の成就と画面の前で映画を再生する様が重なるところが本作に感じる魅力の一つである。

 余談だがこのカギとなる登場人物ス・ノーマン・パーの「雪だるまは融ける」という属性と「周囲に溶け込む」「魔女に掛けられていた呪文が解ける」「現実との境界が融ける」といった掛け合わせや、「死せる王子」「凍った心臓」という属性から雪だるまというキャラクターデザインは秀逸だと思う。とても好きだ。

 

「あんたの夢の話でしょ?」「あんた最近変よ~?」「近頃、なんか、ヘンダ~」「ギャハハハ」(BGM:へん~だへんだよへ~ンダ~ランド~) (いや、こえーよ)

 本作の重要な転換と感じたヘンダーランドに向かう一家の車の中での会話である。ここまでの説明でしんのすけの創る「ヘンダーランド」と、周りの人物(主に両親)が認識しているテーマパークとしての「ヘンダーランド」の違いを詳しく説明していなかったが、結論から言えば私はほぼ同一のものだと考えている。先述では「ヘンダーランド」は「しんのすけの脳内、また脳内に眠る未完の創作」として説明した。それが意味するのは「テーマパークへ行くこと」が「ヘンダーランドの続きを描くこと」とイコールで結ばれることである。その根拠をシナリオを順に追いながら説明する。

 しんのすけはヘンダーランドに3度訪れている。1度目は遠足で園のみんなと、2度目は家族で、3度目は一人で向かうことになっている。映画の最初の園の読み聞かせのシーンでは典型的なおとぎ話に飽き飽きしていることをレギュラーの5人が話し合い、特に根拠はないのだが、その後オリジナルのおとぎ話を創ってみようという流れになったのだろうと予想する。つまり「お話作り(創作活動)」というお遊戯である。そして遠足はこのお遊戯様子をメタファーとして描いているのだと思った。遠足前日の就寝のシーンから、翌朝のまぶしい場面転換としんのすけの発する違和感あるセリフからそう読み取れる。園児の会話の様子を見ていくと、かざまくんをメインにテーマパークの間取りや設計、アトラクションの説明が入る。これをお話作りに当てはめるなら、世界観や勇者の武器、お姫様のお城といった背景や舞台装置のことだろう。しかし背景だけで肝心の物語の話はない。ここまでは他の人とほぼ同じで構わないのだ。物語の執筆が始まり「ヘンダーランド」がしんのすけの創作として始まるのは、みんなとはぐれて一人迷子になるところからである。しんのすけは気が付くと行き先(進行)やみんなとの集合場所(結末)が分からず、まさに「お話作り」に迷子になっていく様が描かれる(子供の想像力の美しい表現で好き)。しんのすけは迷子になっているからと言ってまだ不安を見せずにいたが、ある困難に直面し筆が止まってしまう。その困難は後に説明するが、物語を書き終える事への責任や物語が持つ無差別で加虐的な力への戸惑いだと私は思う。その日は家に帰るが、家でトッペマと再会し対話をする。しんのすけはトッペマの頼みを断りはしたが、魔法のトランプが衣類かごの中に入っていたということは、世界を救う(物語の続きを考える)ことができるのはしんのすけ以外いないことを示している。「ヘンダーランド」はしんのすけだけに描くことを許されている、つまりしんのすけが創る物語なのである。

 2度目はスノーマンの招待チケットにより、家族で向かう。しんのすけは未完のヘンダーランドに心残りがあったが、恐怖からできればもう関わりたくないのである。しかし両親からの信頼を得たスノーマンの誘導により、強制的にしんのすけのヘンダーランドを両親に見せることになる。できることならアイデアを家族から聞き出せる期待もあったのかもしれない。しかし結果は見ての通り、一笑に付され、ヘンだと横やりを入れられるのである。例えばマンガ好きの友人とオリジナル漫画を一緒に作ったとして、仲間内に見せることはできても、親に見せるとなるとはじめは気が引けることもあるだろう。それを理解できないけど信頼のある他人が親に「子供の想像力を引き出す教育」だと吹き込み、家族会議の中で発表会をするような状況を想像してもらえば、このシーンに感じた恐怖が伝わるだろうか。自分の子供というフィルターを外し、ひいき目なしに親を芸術で本当に驚かせることが全ての子供にとって簡単な事だろうか。その後両親はしんのすけの元から消えてしまう。しんのすけは自分の創りかけの創作によってまたしても、親に対して「悪者によって洗脳され話が通じない人」という重ね合わせをしてしまい、日常における対話の機会やぬくもりを退けてしまう(目に写し、自分の親であることを認めようとすることを拒絶している状態)。しかし、しんのすけは自分の創作活動への誇りを捨てず、物語の結末を描くことに決心し、もう一度両親からの愛を取り戻そうとするのである。

 3度目は自分の足でヘンダーランドへ向かう。家と園とその往復路という理想とアイデアの枯渇した一つの世界から、バスや車という居心地よく守られた卵に頼らずに、自らの足と、立ち代わり入れ替わる他人と肩を並べざるを得ない電車に乗り、脱出をするのである。ヘンダーランドについたしんのすけは電車に変身し自分のレールを進む、その先に待つのは別れの悲劇であることが明らかになる。ミケランジェロの石に内在する運命に従い彫刻する逸話のように、その物語の運命のレールは別れの場面抜きには完成しないことをしんのすけは気づいていて、一度筆を置いたのかもしれない。トッペマは物語から運命づけられた退場すると、しんのすけが物語を書き始めた時、初めて出会った際に歌った歌を再び歌う。

 

  私はトッペマ あなたのしもべ

  だけどなんの 役にも立たない

  だって私は ただのマペット

 

しんのすけから見てトッペマは人形(マペット)であり、創作(フィクション)の世界の住人である。当然のことだが、それは意識の中では自分に勇気を与えることはできても、日常の中におけるこじれた人間関係を取りなしてくれたり、嫌な態度の年長者から守ってくれたりは出来ないことを意味する。そしてその存在を創り出すもの、視聴し記憶するものがいなければ存在できない、という意味で創作は現実の「しもべ」だ。それと同時に、エンディング前の静止画では、創作(フィクション)側から見たしんのすけ(現実)の姿ががそれまでとは逆に人形として描かれている。創作の中の運命にもまた干渉できない。しかし日常を生き抜くための術を与えてくれる創作がなければ生きていけない、という意味で現実もまた創作の「しもべ」なのだ。

 現実と創作の間には見たままに壁はあれど、しかしまた運命共同体なのである。二つの世界の事柄は干渉しない、されど壁を挟んだ二人の感性を刺激しあうことがある。そしてこの映画から先に記した近年の諸問題への違和感を解き明かすための術を、私もまた得ていることがこれを明らかにしていた。

 

・おわりに

 ヘンダーランドの大冒険はまだ語りつくせない魅力がある。これ以上はただでさえ取り留めもない文章がさらに書きなぐりのようになってしまうと思われるため、今回はここまでとさせてもらい、本作を咀嚼する時間をいただきたいと思う。しばらく後にもう一度見たいと思う素晴らしい作品に出会えたことを感謝している。他の映画クレヨンしんちゃんへの興味も爆裂的に上がったので追って見ていきたいと思うし、後日公開される新作「ラクガキングダムとほぼ四人の勇者」もぜひ見たいと思う。本日はこれにて。

初めまして

 はじめまして、Akkie(アッキー)と申します。

 

 現在大学生活4年目にして、来年からは企業で働く予定の者です。

 学業は残すところ卒業研究だけであるため、有り余っている時間で作文力と表現力の向上を目標に、趣味であるアニメやゲームなど鑑賞した作品の感想、関心や体験を文章にしてアウトプットしたいと思います。

 

主に記事にしていきたい趣味を紹介します。

 まず日本のアニメや映画の鑑賞が好きで、今一番好きなアニメは「少女歌劇レヴュースタァライト」です。物語の構造や話型をたくさん知りたく、年代を問わず様々な作品を鑑賞して記事を作りたいと思います。また、大学生活中に出会い、感じ方を変えてくれた多くの作品たちへの感謝と自分の指向性の確認のため、これまで見た作品の感想も備忘録として書く予定です。

 音楽はシティポップと呼ばれるジャンルが好きになり、レコードの収集も趣味の一つです。歌う方も好きなため、よく一人でカラオケに行きます。

 ゲームは主にPCでプレイし、steamのインディーズゲームやオンラインゲームで遊びます。カードゲームが特に好きでMTGやHearthstoneで遊びます。現在プレイしているゲームは「Enter the Gungeon」というとても面白いアクションローグライクです。

 他にも一人暮らしの生活で身に着けた料理やアウトドアも記事にしたいと思います。

 

 ご容赦いただきたいことは、私は特に創作活動を行って来たわけでもなく、社会では意見交換に消極的であり、何より世間知らずな所がふんだんにあるため、拙く伝わりづらい文章を書いてしまうと思います。それにより意図せず誰かを少なからず傷つける表現をしてしまうことがあると思います。もし、そうしてしまった際には責任を持ち対応させていただきたいと思います。

 

 飽き性ですが、よろしくお願いします。