アニメ感想雑記「映画クレヨンしんちゃんーヘンダーランドの大冒険」

こんにちは!Akkie(アッキー)です。

 今回は先の記事で紹介させていただいた通り、アニメの感想雑記を書き述べてみたいと思います。

 アニメの感想第一稿目は先日鑑賞した「映画クレヨンしんちゃんーヘンダーランドの大冒険」(1996)です。アマゾンPrimeVideoで2020/9/2に視聴。

 

・あらすじ(読み飛ばしてください)

 テーマパーク「ヘンダーランド」に幼稚園の遠足で訪れた野原しんのすけは、みんなとはぐれてしまい工事中のサーカスの舞台裏で人間のように喋る操り人形のトッペマ・マペットと囚われの姫に出会う。トッペマからヘンダーランドの正体が異世界から地球を侵略しに来た魔女(マカオとジョマ)が支配する城であることを知らされ、計画の阻止の協力を頼まれる。しかし魔女の手下によってトッペマは呪いをかけられ、しんのすけは家に帰されてしまう。その後マカオとジョマに危険だと判断されたしんのすけの元に刺客(ス・ノーマン・パー)が送られ、野原家の両親に言葉巧みに取り入りヘンダーランドに一家を招待する。スノーマンを疑わない両親にしんのすけは終始不安を抱きながらも、何事もなく帰宅したと思いきや両親が遊園地で偽物と入れ替わり、城に囚われてしまったことが明らかになる。トッペマに協力することを決心し、家族を救うためにしんのすけは一人で電車に乗り再びヘンダーランドに向かう。しんのすけは心のあるものにしか扱えないという魔法のトランプを使い魔女の手下と戦うが、その最中にトッペマが魔女の手下の一人と相打ちになり、力尽きてしまう。両親と再会したしんのすけは両親と共にマカオとジョマとの最終決戦に挑み、撃退に成功する。手下の一人であるスノーマンが最後に立ちはだかるが、解放されたメモリ・ミモリ姫が窮地に駆け付け、スノーマンをもとの姿に戻すとその正体はヘンダーランドの王子であった。そして姫も自分の正体がトッペマであることをしんのすけに告げ、王子と共に地球を去り、物語は幕を閉じる。

 

・所感

 私は現在20代前半にして、クレヨンしんちゃんの映画を見た記憶はほぼなかった。いつか見たいと思っていたシリーズで、せっかくなので好きな動画投稿者が話題に挙げていた「ヘンダーランドの大冒険」を見ることにした。フィルムのチェンジマークや強い光の点滅に(20数年前の作品なので当然だが)古さを感じさせた。そしてその映画の質感が、本篇の要所での不気味さやしんのすけの不安を共有させる演出と混ざり合い、自分にとってこの鑑賞はとても心地良い体験となった。

 遠足に行くバスに乗るしんのすけを、みさえが見送るシーンの朝の青白さ。しんのすけが迷子になる場面や両親がトイレに行きしんのすけ取り残された場面の引きのカメラと不気味に長く伸びる影。しんのすけが不信感を訴えるシーンなどでは見上げる構図、あるいはしんのすけを見下ろす構図がカートゥーン調のデザインを活かすように映し出され、子供から大人への抗いようのなさや話の通じなさの恐怖を強調する作りになっていると感じさせられた。それと同時にその構図を用いないシーンや同じ身長のトッペマやほかの園児との会話においては、安心がもたらされているように感じた。物語前半における不穏さの演出はとても楽しめた。

 

・劇中劇・おとぎ話・夢・理想・創作としての「ヘンダーランド」

 私は地上波のアニメクレヨンしんちゃんは見ていたことがあり、しんのすけやほかの園児が5歳児にして大人びて達観した発言をし、保育士や大人たちに困り顔をさせるという流れは覚えていた。映画序盤の読み聞かせの場面で「おとぎ話」と現実の壁に絶望せず、冷めた態度で語り合う一同の様子は「あぁ、クレしんはこの雰囲気だよね」とクレヨンしんちゃんを見ていた記憶を蘇らせたと同時に、この作品が「王子様とお姫様」と「現実」を扱う作品の一つであるのか、と予期していなかったワクワク感が訪れて嬉しい気持ちになった。話がそれるが自分はそのはざまに苦悩する様子を取り扱う作品が好きで、その一つである「少女革命ウテナ」は大学生になってから見たが自分の感じ方を大きく変えた一作である。

 鑑賞後は、またしても予想外に本作の構造とメタファーに驚かされ、そして「自分の中での創作(フィクション)の在り方」を考えさせる作品であることに気づかされた。

 もちろんこの映画が「野原一家の生活する日常とヘンダーランドという日常」が映画の中のあの時間だけ重なった(2つの社会性を持つ世界が繋がった)と考えるのが真っ当だと私も思う。しかし堅苦しく唐突な話になってしまうが、「超常を支えている日常」「現実社会と創作」「現実と理想」というキーワードの問題を、それこそ近年某青い鳥SNSで取沙汰されている「フィクションが現実に影響を及ぼす」というキーワードで話題に上がる問題を目の当たりにしていて、これだけヒントに満ちた本作を前に無邪気に「面白かったねー」という感想を添えるだけで済ませてはいけないという義務感(”謎の”かもしれない)に近いものを正直感じてしまった。そのため、回りくどく伝わりづらい説明になってしまうと思うが、できるだけこの堅苦しい視点での解釈をしたいと思う。また最近公開された「レヴュースタァライト・ロンド・ロンド・ロンド」の構造と似たものを感じたため、本作が「ヘンダーランドの大冒険」の私の中での解釈に影響を及ぼしている。私が思うにこの作品は「おとぎ話」に向き合う「しんのすけ」を描いた「映画クレヨンしんちゃん」に向き合う「画面の前の私」という、入れ子構造が成立する作品の一つである。

 本記事では、日常(私生活・社会)と超常(創作)の相互的な関係の自分の理解している範囲を説明することを目標としていきたい。

 映画本編における架空の世界の「ヘンダーランド」は「現実に干渉してこないおとぎ話」と「現実に干渉してくる異世界」の2つの側面を持つように描かれているが、実際には前者の役割を徹底し、大局的に観れば後者のように日常を脅かしてはいない。なぜなら「ヘンダーランド」はこの映画における劇中劇のおとぎ話であり、結論から言えば、それはしんのすけだけが知る物語だからである。

 そう思う根拠として本作には実際に、「ヘンダーランドはしんのすけが見ている夢であり、しんのすけの創り出すおとぎ話である」ことを示唆する表現が散見されたので、興味を持った点をいくつか説明する。

 

 「トッペマがテーマパークでかけられた呪い(制約)が、夜(深層心理の中)以外は誰にも見えなくなり助けられなくなるというもの」

「テーマパーク」として存在するヘンダーランドは「超常の世界」としての意味を持つ。「超常」は日常の対義語であり、日常の社会生活の中には存在しないものがある場所である。しんのすけがテーマパークであるヘンダーランドにいる時間は、しんのすけが作品と向き合う(空想する、理解する、創造する)時間であり、具体的にはお話作りをするための頭の回転や映画館で映画を見た後の脳内の刺激としても理解できる。つまりはしんのすけの意識の中だけの世界である。しかしテーマパークの外、いわゆる日常ではその力は無意識の内でうごめいている程度であった。「誰とも話が通じない日常にイマジナリーフレンド(トッペマ)を召喚する」「ヘンダーランドという物語の続きを描く」ためには自分の意識の深層を掘り下げ顕現させるための対峙の場が必要なのである。その儀式の場が「夜(日常と超常の境界)」であり「浴室(のぼせて意識と無意識が融け合う湖と、意識と無意識の境界を表す水面のメタファー)」である。実際トッペマ(超常の存在)は野原家の浴室で2度召喚されている。しんのすけはこの映画において、しんのすけの中に眠る作品(ひいては現実の諸問題への救難信号)を上手くアウトプットする力を持っていないがゆえに(のちに説明するが未完成なためである)、両親や保育士などの周囲に自分の頭の中のイマジネーションを理解してもらえないという危機に何度も直面する。

 

 「現実に侵略してくるス・ノーマン・パー」

 ここで「おいおい、おとぎ話の登場人物のスノーマンは日常にも来てるじゃねーか」と言いたくなる人もいると思うので、自分の見解を説明する。繰り返しになるが、先述の超常はしんのすけの中にだけある物語、日常は現実社会(家や園などでの生活)に変換して理解してほしい。まずスノーマンが日常にいる他の登場人物から本当の雪だるまに見えているなら、不審者として真っ先に職質されるのが当然であり、保育士として幼稚園に侵入することも不可能だ。しかし、”注目を集める人”を超える反応をしんのすけ以外の誰も見せていないのである。スノーマンはしんのすけ以外からは雪だるまのような風貌には見えるが、雪だるまのUMA異世界人として認識はされていないようである。助けられたまさおくんや野原両親をはじめ、彼を指して「人」と繰り返し呼ぶ様は(とても不気味)これを強調する。この現象は、しんのすけのその時身近にいた周りに融けこむのがうまくウィットに富みミステリアスな人物が、自分だけのプライベートな領域(家庭や心)を侵略してくる可能性に危機を感じ、しんのすけの創作「ヘンダーランド」から融け出してきた悪者としての像をしんのすけが重ね合わせて認識しているのだと思う。具体的なスノーマンの正体は、園に潜り込むときに使った口実の「市の教育委員会の新しい教育プログラムのテストに来た人」が実は本当のことなのだろうと考えている。研究の引用から目の前の人を人間としてではなくサンプルデータとして扱い、パーソナリティに侵食しようとする学者質な人間の側面を感じ取り、しんのすけは違和感と恐怖を覚えたのだと思う。

 そしてしんのすけがこの人物を「ヘンダーランド」のスノーマンと重ね合わせる行為は、一年に一度の記念日にプレゼントを贈って来る謎の人物を「サンタクロース」と信じたり、不審な人物や夜の不安を「昔の妖怪」や「怖い話」に重ねて余計に怖がったり、電車で座っているときに目の前の年配が「若いのに譲らないなんて」と思っていると邪推して席を譲るかどうかを悩み続けたり、興味がある人が自分の知らないところで「淫らな性生活をしている」と勘ぐって交流を拒否するなど、しんのすけは「創作(フィクション)と現実の意図しない融合(無意識の引用)」による危機に直面している事を表している。

 私の持論で恐縮なのだがしんのすけにおける「ヘンダーランド」に限らず現実の様々なドラマの中でこうした重なりが生じて委縮する仕組みに、「創作(自分の中のマニュアルであり統合された作品の一つ)が未完だから」が要因の一つだと考えている。「未完の創作」の意味は立ち上がりや問題提起、葛藤をするというアイデアだけで結末やエンディングを持たない状態ををイメージしてもらいたい。つまり創作が完成していない状態は「苦悩・困難・危機」のみで、「調和・開き直り・無視」などの道しるべがないこと意味し、「思い出」という形で本を綴じ作品としてひとまず完成させていない状態を意味する。本作のクライマックスを、しんのすけが物語を創り終えに行く過程と自分が認識しているのはこのイメージがあるからである。そしてしんのすけの目標の成就と画面の前で映画を再生する様が重なるところが本作に感じる魅力の一つである。

 余談だがこのカギとなる登場人物ス・ノーマン・パーの「雪だるまは融ける」という属性と「周囲に溶け込む」「魔女に掛けられていた呪文が解ける」「現実との境界が融ける」といった掛け合わせや、「死せる王子」「凍った心臓」という属性から雪だるまというキャラクターデザインは秀逸だと思う。とても好きだ。

 

「あんたの夢の話でしょ?」「あんた最近変よ~?」「近頃、なんか、ヘンダ~」「ギャハハハ」(BGM:へん~だへんだよへ~ンダ~ランド~) (いや、こえーよ)

 本作の重要な転換と感じたヘンダーランドに向かう一家の車の中での会話である。ここまでの説明でしんのすけの創る「ヘンダーランド」と、周りの人物(主に両親)が認識しているテーマパークとしての「ヘンダーランド」の違いを詳しく説明していなかったが、結論から言えば私はほぼ同一のものだと考えている。先述では「ヘンダーランド」は「しんのすけの脳内、また脳内に眠る未完の創作」として説明した。それが意味するのは「テーマパークへ行くこと」が「ヘンダーランドの続きを描くこと」とイコールで結ばれることである。その根拠をシナリオを順に追いながら説明する。

 しんのすけはヘンダーランドに3度訪れている。1度目は遠足で園のみんなと、2度目は家族で、3度目は一人で向かうことになっている。映画の最初の園の読み聞かせのシーンでは典型的なおとぎ話に飽き飽きしていることをレギュラーの5人が話し合い、特に根拠はないのだが、その後オリジナルのおとぎ話を創ってみようという流れになったのだろうと予想する。つまり「お話作り(創作活動)」というお遊戯である。そして遠足はこのお遊戯様子をメタファーとして描いているのだと思った。遠足前日の就寝のシーンから、翌朝のまぶしい場面転換としんのすけの発する違和感あるセリフからそう読み取れる。園児の会話の様子を見ていくと、かざまくんをメインにテーマパークの間取りや設計、アトラクションの説明が入る。これをお話作りに当てはめるなら、世界観や勇者の武器、お姫様のお城といった背景や舞台装置のことだろう。しかし背景だけで肝心の物語の話はない。ここまでは他の人とほぼ同じで構わないのだ。物語の執筆が始まり「ヘンダーランド」がしんのすけの創作として始まるのは、みんなとはぐれて一人迷子になるところからである。しんのすけは気が付くと行き先(進行)やみんなとの集合場所(結末)が分からず、まさに「お話作り」に迷子になっていく様が描かれる(子供の想像力の美しい表現で好き)。しんのすけは迷子になっているからと言ってまだ不安を見せずにいたが、ある困難に直面し筆が止まってしまう。その困難は後に説明するが、物語を書き終える事への責任や物語が持つ無差別で加虐的な力への戸惑いだと私は思う。その日は家に帰るが、家でトッペマと再会し対話をする。しんのすけはトッペマの頼みを断りはしたが、魔法のトランプが衣類かごの中に入っていたということは、世界を救う(物語の続きを考える)ことができるのはしんのすけ以外いないことを示している。「ヘンダーランド」はしんのすけだけに描くことを許されている、つまりしんのすけが創る物語なのである。

 2度目はスノーマンの招待チケットにより、家族で向かう。しんのすけは未完のヘンダーランドに心残りがあったが、恐怖からできればもう関わりたくないのである。しかし両親からの信頼を得たスノーマンの誘導により、強制的にしんのすけのヘンダーランドを両親に見せることになる。できることならアイデアを家族から聞き出せる期待もあったのかもしれない。しかし結果は見ての通り、一笑に付され、ヘンだと横やりを入れられるのである。例えばマンガ好きの友人とオリジナル漫画を一緒に作ったとして、仲間内に見せることはできても、親に見せるとなるとはじめは気が引けることもあるだろう。それを理解できないけど信頼のある他人が親に「子供の想像力を引き出す教育」だと吹き込み、家族会議の中で発表会をするような状況を想像してもらえば、このシーンに感じた恐怖が伝わるだろうか。自分の子供というフィルターを外し、ひいき目なしに親を芸術で本当に驚かせることが全ての子供にとって簡単な事だろうか。その後両親はしんのすけの元から消えてしまう。しんのすけは自分の創りかけの創作によってまたしても、親に対して「悪者によって洗脳され話が通じない人」という重ね合わせをしてしまい、日常における対話の機会やぬくもりを退けてしまう(目に写し、自分の親であることを認めようとすることを拒絶している状態)。しかし、しんのすけは自分の創作活動への誇りを捨てず、物語の結末を描くことに決心し、もう一度両親からの愛を取り戻そうとするのである。

 3度目は自分の足でヘンダーランドへ向かう。家と園とその往復路という理想とアイデアの枯渇した一つの世界から、バスや車という居心地よく守られた卵に頼らずに、自らの足と、立ち代わり入れ替わる他人と肩を並べざるを得ない電車に乗り、脱出をするのである。ヘンダーランドについたしんのすけは電車に変身し自分のレールを進む、その先に待つのは別れの悲劇であることが明らかになる。ミケランジェロの石に内在する運命に従い彫刻する逸話のように、その物語の運命のレールは別れの場面抜きには完成しないことをしんのすけは気づいていて、一度筆を置いたのかもしれない。トッペマは物語から運命づけられた退場すると、しんのすけが物語を書き始めた時、初めて出会った際に歌った歌を再び歌う。

 

  私はトッペマ あなたのしもべ

  だけどなんの 役にも立たない

  だって私は ただのマペット

 

しんのすけから見てトッペマは人形(マペット)であり、創作(フィクション)の世界の住人である。当然のことだが、それは意識の中では自分に勇気を与えることはできても、日常の中におけるこじれた人間関係を取りなしてくれたり、嫌な態度の年長者から守ってくれたりは出来ないことを意味する。そしてその存在を創り出すもの、視聴し記憶するものがいなければ存在できない、という意味で創作は現実の「しもべ」だ。それと同時に、エンディング前の静止画では、創作(フィクション)側から見たしんのすけ(現実)の姿ががそれまでとは逆に人形として描かれている。創作の中の運命にもまた干渉できない。しかし日常を生き抜くための術を与えてくれる創作がなければ生きていけない、という意味で現実もまた創作の「しもべ」なのだ。

 現実と創作の間には見たままに壁はあれど、しかしまた運命共同体なのである。二つの世界の事柄は干渉しない、されど壁を挟んだ二人の感性を刺激しあうことがある。そしてこの映画から先に記した近年の諸問題への違和感を解き明かすための術を、私もまた得ていることがこれを明らかにしていた。

 

・おわりに

 ヘンダーランドの大冒険はまだ語りつくせない魅力がある。これ以上はただでさえ取り留めもない文章がさらに書きなぐりのようになってしまうと思われるため、今回はここまでとさせてもらい、本作を咀嚼する時間をいただきたいと思う。しばらく後にもう一度見たいと思う素晴らしい作品に出会えたことを感謝している。他の映画クレヨンしんちゃんへの興味も爆裂的に上がったので追って見ていきたいと思うし、後日公開される新作「ラクガキングダムとほぼ四人の勇者」もぜひ見たいと思う。本日はこれにて。