アニメ雑記「ラーゼフォン」

お久しぶりです。

課題が全く手につかず、いよいよ卒業がやばくなってまいりました。しかしこうした過ストレス下でこそなぜかアニメや映画は楽しめるものなのですね。

 

 さて、ここ数日でdアニメでサジェストされた「ラーゼフォン」(2003)とその再編成された劇場版「ラーゼフォン 多元幻想曲」(2003)を鑑賞しました。少年が自立し使命に向き合う物語です。劇場版では登場人物を削り、アニメでやりたかったことをブラッシュアップし、プラスで主人公綾人とヒロイン遙による時間を超えたラブストーリーにスポットを当てていました。しかし結末や登場人物の役割が違えど、基本的にアニメと同じ道を辿り、似た場所に到着していて、自分にとっては"ifストーリー"というほどの違いはないとの判断ですので、本稿では基本的にアニメ版が劇場版の、劇場版がアニメ版の、それぞれの物語を補い合っているという理解で話を進めようと思います。

 

流れる血潮、脱出と回帰

 所感となりますが本作は、閉鎖的で建物が角張った空の狭い東京と、開放的な南の島と畳のある日本家屋を行ったり来たりする寒暖差により、まさにサウナのごとく気持ちのいい映像体験が得られました。

 そうした映像体験も含め、物語において頻出する”青い血”。頻出する青と赤を対比する演出が本作では重要な意味を示しているのではないかと自分は思いました。

 

 この物語では道しるべとして、赤と青という二色のモチーフを用いて「脱出」と「回帰」という二つの象徴をそれぞれ導いていることが考えられる。

 

 青色自体は希望や幸せ、命の源、海の青というイメージを持つが、それが赤色と比較されるとき青のイメージは死や静的なイメージに逆転し、逆に赤が生きていることや情熱といった動的なイメージを想起させる。

 

 アニメ最終話、精神世界の地下鉄で綾人と久遠が対峙する場面において、一話と同様に左の路線の電車に乗るが、これまた同じく左の電車は青色が指し色、または青がメインの色となっている。そして対向車線の電車は赤色であることがここで明かされる。

 この地下鉄と電車というモデルが人体における動脈と静脈にそれぞれ当てはめられると私は考えた。一般的なイメージかどうかは分からないが、赤が動脈、青が静脈と理解している。補足すると静脈は血液が心臓へと戻る際に通る血管、動脈は血液が心臓から出ていく際に通る血管である。地下鉄という場面は静かで暗く地表より低い場所、つまり体あるいは心の中を表していると推測される。

 

 あらすじを追いながらこのように心臓をモデルとして考えられる点を挙げ連ねていく。

 

 第一話。東京の外側から来た人間、紫東遥はそれまでの綾人の知っている世界に疑問を投げかけ、「世界の真実を知ろう」と神名綾人に脱出の手を差し伸べるが、綾人はそれを断り、綾人の幻の中の理想の彼女である美嶋に導かれ青い電車に乗る。閉塞的なパーソナリティを持つ主人公にありがちな逃避フェーズである。そして自分の中に潜り込むことで、見えたものは恐ろしい謎の卵であった。その卵が割れ、中から出てきたのはこれまた謎の巨人、ラーゼフォンであった。物語を追うことで判ることだが、ラーゼフォンは綾人自身でもあり、世界を不安定な状態から調律するための鍵である。それを踏まえるとここで綾人が苦しむのは、「自分にはどうしようもないだろ」と思うほどの責任の一端を目の当たりにしたからである。ここで「自分に向き合う」という選択肢が綾人にとって目を背けたくなるものとなり、パニックを起こしながらも、17歳まで東京を出たことがない(郊外に旅行ぐらい行っていたかもしれないが、親せきの家に遊びに行ったことがないというセリフや記憶を操作されてることから)綾人は遙と共に東京を脱出し、外の世界を目の当たりにすることになる。

 

 外の世界(主に南の島ニライカナイ)を舞台に、綾人は傷つきながらも、現実の世界の真実を知っていく。どうやら東京は地球とは別次元の異世界組織「ムー」に支配されていて、障壁を作り、壁内の人間の記憶を操作することで東京を拠点にし、ゆくゆくは人間世界を乗っ取ろうと企んでいたようである。そして綾人には知らされていないが、綾人はムーにとっても重要なカギであり、彼を取り戻そうとムーの兵器が綾人やその周りに攻撃を始め、綾人は混乱しながらもラーゼフォンに乗り戦うことを選ぶ。

 

 その後この作品では真実に傷つけられたり、過去に真実で傷ついた、あるいは傷つきたくない大人たちが秘密を打ち明けずにいる様子が繰り返し映し出される。綾人が外の世界の真実を知ることで傷つくことはもちろん、遙が綾人の記憶に残滓として残る運命の人であることを隠していること、遙と樹のそれぞれの思い人をそれぞれごまかし合っていること、一色の正体を財団が最後まで隠していたこと、樹が綾人と兄弟であることを隠していたこと...いくらでも。どの物語においてもそうした人物同士の情報開示は当たり前のことだが、本作において打ち明けられるほとんどの真実には人を傷つけるトゲが明確に表現され、登場人物たちがちゃんと傷ついている。

 

樹「真実と幸せは意外に遠いものさ。それが分かるくらいには大人だろ?」

綾人「怖かったんだ、知ってしまうことで壊れることが。僕はここが好きだから。」

 

 決定的に綾人を限界にしたのは、十四話において綾人が異世界からの侵略者「ムー」の血を引いていることが明かされたことだ。ムーの血は赤ではなく青であり、東京でムーのコントロールを受けた人間の血も青くなってしまう。綾人の血も青くなる兆候が確認されていたのである。ムーに故郷を燃やされた人やムーと戦ってきた人達と共にいた綾人はムーリアン(ムーの人たち)であることを知り拒絶されたり敬遠されたりもした。優しくされつつも居心地が悪さを感じた綾人だが、遙によって外に向けられていた関心を、再び内側に向けることで自分自身を見つめなおす、自らの生まれに向き合うことを決意する。

 

 この動きはまさに心臓をポンプとした血流である。外の世界を知る、「脱出」を担う動脈と、自分と向き合う、「回帰」を担う静脈。血が青くなることはヘモグロビンを奪われ(傷つき)、生きるためには再び心臓(肺の機能と一緒くたにしているが)である東京(故郷)へと帰らなければならないことを知らせるサインであると考えられる。

 

 母親である麻弥と再会した綾人は自分の生まれとラーゼフォンで世界を調律することの意味を明かされる。異世界人であるムーも人間であり、どちらか片方の世界しか存在できず、ムーの世界を存続させたい麻弥は使命を背負った綾人をムー側である東京に閉じ込めておきたかったのだ。アニメ版でのこのシーンは綾人を怖がらせていただけに見えたが、劇場版でのこのシーンは、綾人の自主性を考慮し、人間の世界かムーの世界か綾人自身が選ぶように促している。

 

 そして自分と向き合うことにしんどくなった綾人は東京を後にして、再び外側、他人と社会に目を向けることになる。

 外の世界に戻った綾人は樹と久遠、朝比奈と鳥飼、バーベム財団、そして遙と言葉を交わし、今度は自分がムーリアンなだけではなく、世界の調律の鍵となるさらに高次の「オリン」という特別な存在である真実を突き付けられる。オリンは文明リセット機能いわば世界改変能力を持つが、その力を使えば人ではなくなってしまい、改変した世界に人間として留まることができず概念のような存在になってしまうのである。

 

 存在すると思っていた黄色いワンピースの女の子が、欲望などの自分の側面のひとつ、つまり自分自身であることを知ったこと。そのイメージの元は、ずっとそばにいたが、薄れる記憶の中に消えかけてた遙であったこと。オリンになり調律を行うことがもはや避けられない事。それらの材料がそろった綾人は、自分の決断、本当にそれで納得できるかを自分に問い、動かしようのない現実に精神を順応させるため、久遠にエスコートされ再び自分の世界へと回帰することを選ぶ。そして青い電車に乗る。アニメにおけるこの地下鉄のシーンは劇場版ではカットされているが、おそらく遙が綾人の精神に混ざりこむために青いジェットで介入したシーンはどちらにもあるので、恐らく劇場版でも同じプロセスを踏んでいると考えられる。

 精神世界の深くに来た綾人は(水没したハイウェイの場面)、アニメ3話でも登場した母のメッセージを告げる不自然な青い公衆電話の受話器を取る(自分の深層と交信する儀式)際に、今度は外の世界で得た思い出があるために赤いテレビ(外の世界の象徴)からのメッセージが映し出され、青い鳥(ここでは静脈ではなくチルチルとミチルの青い鳥の寓話からの引用としての独立した青)となって綾人に潜り込んできた遙に導かれ、世界の調律を遂げることで物語は幕を閉じる。

 

 物語をまとめると、ラーゼフォンと対峙する(静脈)、外の世界を知る(動脈)、東京に帰る(静脈)、もっと外の世界を知る(動脈)、自分の決断と向き合う(静脈)、という反復運動が物語を通して行われていることが分かる。

 

 PDCAサイクルというモデルは、それを実践しようとしなくても、生きようとする人の人生に大方当てはめて考えることができるだろうと自分は認識していることを先にお知らせしておくと。そのサイクルのように内なる世界と外の世界を行ったり来たりしながら、情報量を増やしていき、サイクルをどんどん大きく満ちたものにしていく。脱出(動脈)するなら回帰(静脈)もまたそのたびに必要である。動脈と静脈のどちらか一つでは身体の機能は成り立たないことと同じである。

 

 

 「ラーゼフォン」という作品は、そうした生きるために行う普遍的なサイクル運動を心臓という背景モチーフを用いて表現し、脱出(外の世界のあの子、まだ見ぬ他人と関わり、生きるための知恵を得る)というメソッドと同時に、回帰(自分の人生を見つめなおし、その祖たる母を知る)というメソッドを忘れてはならない、そして逆もまた然り、という事をメッセージとした作品なのではないだろうか。

 

 

 

 

 

余談

 アニメのラストシーンにリアルタイムでついていけなかった一人として、劇場版鑑賞後に整理して苦し紛れに出した結論だが。紫東遙は綾人をずっと想っていて綾人の中に女性像を作り上げている。樹は紫東遙が好きであるが、恋敵でありコンプレックスを感じ続けている兄綾人にも同じだけ愛に似たエネルギーを捧げている。そして久遠は真実の世界の中で美嶋と同等の存在になる。そして美嶋玲香は綾人の願望であり綾人自身でもある。そして美嶋玲香の正体は紫東遙である。つまり樹が自認したずっとそばにいた幸せ(青い鳥)は久遠であり綾人のことである。最後に綾人は調律後の世界で樹として転生する。

 複雑な流れだが綾人、紫東遙、樹、久遠、美嶋玲香の5人の登場人物がそれぞれ同化しながら一人ずつ減って行き、最終的に円が点に収束するように一つになる(調和がなされる)構想は、数学の証明チックでとても素敵だと思うことにしている。

 

 また劇場版をヒントにアニメ版を見直すと、ちゃんと美嶋玲香が綾人にとっての幻の少女であることがミスリードと織り交ぜられながらもしっかりと表現されていた。学校のプールの飛び込み台に立つ綾人は水面に映るが美嶋玲香だけ映らなかったり、美嶋玲香と電話で会話するが、母が確認すると着信履歴がなかったりなど。注意力が足りない自分としては大変驚かされた。また美嶋玲香の正体が紫東遙であることもアニメのラストシーンで最後のピースが揃うようにきちんと謎が散りばめられており、アニメのみでも黄色いワンピースの少女を追う綾人と素性を綾人に明かさない遙の、すれ違いの構図の謎がきちんと解けるようにできていた。それを踏まえれば劇場版とアニメ版でやりたかったことが同じであることは分かる。その点でアニメ版は登場人物によって登場人物の見える姿が違うトリックを活かしたミステリー側面での作りであることが分かり、自分は大変感動した。

 

 好きな登場人物は如月樹で、彼を演じる宮本充がその理性的だがウィットに富んでるキャラクターと相まって、ビッグオーのロジャースミスを思い起こさせて個人的にとても見ごたえがあったし作品を見続けるモチベーションの一つにもなった。

 

 また根来島で綾人が戦うまでの葛藤は、海風と主人公のちょっとだけDQNな性格と相まってFF10を思い起こさせた。そして綾人が自立していくが、使命によりこの世界からは消えてしまうという展開はFF15を思い出して、正直少しムッとしてしまった。(こういう展開には慣れないため....)

 

 劇場版で追加された終盤の遙の葛藤シーンで話してる内容がまた良かった。大学の講義の受け売りだが、まず自分が存在がして他のいろんなものが存在するというある西洋哲学と比較して、日本の哲学は人と人とが認識し合うことで初めて自分が存在できるというやまと言葉から導かれる思想の下地があるという。自分だけで自分を認識することはできない。そうしたベースが会話の中にあるように思えた。これがあることで一見して何をやってるか分からなかった遙の青い鳥による特攻に綾人と遙の絆の意味が感じられたし、綾人が自分を見つめなおそうとして、自分の中に美嶋玲香という他人が出来上がってしまったという事にも必然性が生まれる説明になると思う。

 

 劇場版ではアニメ版における専門用語がバッサリとカットされていた。ヨロテオトルやニライカナイ、神なる心臓、マヤ文明に関する単語をほぼ出さないようにしていたと思う。(アニメ版はアニメ版でその衒学的な雰囲気は好きだが。)アニメ初見時には、当時のオタク君たちのオカルト趣味ならマヤ神話やムー大陸は聞きなれたワードなのかな?と思いもしたが、放送当時はどんな質感だったのだろうか。(ケロロ軍曹の冬樹君って結構一般的なオタクの側面でした?)

 

 

 

これで終わります。最後まで見てくれてありがとうございます。次はラーゼフォンの脚本も担当してる榎戸洋司つながりで忘却の旋律を見ているのでそれか、鉄血のオルフェンズについて時間を見つけて書いてみたいと思っています。それでは。